Home » 昆布を知ろう! » 偉人達の挑戦

「日本一の昆布の里」知られざる養殖昆布の歴史

~生産性の高い恵まれた海と名前の由来~
栄養豊富な親潮と津軽暖流が合流し、自然豊かな山々に囲まれ、恵まれた漁場とともに歩んできた歴史がここ南茅部町にはあります。
南茅部町で採れる昆布は、味、品質ともに優良で、かつて松前藩が朝廷や将軍家に献上していたことから、別称「献上昆布」とも言われています。 昭和11年(1936年)秋、昭和天皇の北海道行幸にあたり、北海道庁から尾札部昆布を御料品として差し出すよう内命を受けた尾札部村(のちの南茅部町) は、村挙げての献上昆布づくりに取り組み、天下昆布に恥じない絶品を仕上げて北海道渡島支庁に謹納しました。以来、天皇北海道行幸の際には献納品として上 納され、のちに「献上昆布」といわれるようになりました。
また、蝦夷嶋奇観(寛政11年=1799)156に、「御上り昆布、一に曰く天下昆布」・・・「是昆布の絶品とす」と記されたことから、「天下昆布」とも言われています。古き時代から、この地の昆布の品質の良さは認められているのです。

~昆布の増殖の歴史~
昆布の増殖の歴史は古く、今から約150年前、日高の山田文右衛門 が大量の石を海に投げ入れ、その石に昆布を付着させて生育させる方法を編み出したのが始まりといわれています。その後も多くの研究者の方々が昆布の増殖研 究に挑みますが、残念ながら産業として確立するまでには至りませんでした。

~養殖のはじまり~
昆布は、収穫できる大きさに成長するまでに2年かかります。1年おき にしか収穫ができない天然昆布漁だけでは、漁師は生計を維持することはできません。そのため、多くの漁師は出稼ぎに出なくてはなりませんでした。「昆布の 養殖ができれば、出稼ぎで浜を離れる必要もないのに。」養殖技術の確立は、浜の漁師たちの悲願でもありました。 昭和30年頃、これまでの漁家経営を支えてきたイカが不漁となり、各漁協や漁業者は養殖事業に取り組み始めます。

~長谷川由雄さんの登場~
ここで長谷川由雄さんの登場です。当時、北海道区水産研究所増殖部長だった長谷川さんは、特殊培養により昆布の種苗の大量生産という画期的な研究に成功しました。昆布を養殖するためには、葉体をある程度の大きさに育てなくてはなりませ ん。長谷川さんは、数十リットルの水槽の中で昆布の微少な胞子から種苗として扱える大きさのものを、水槽の中で多量に生産することに成功したのです。ここからこれまで誰も成功したことのな かった昆布の養殖事業確立への挑戦が始まったのです。


長谷川由雄さん

「漁師との肌と肌の触れ合いが大事」
長谷川由雄さん(元北海道区水産研究所長)
「研究者は、漁師の話をよく聞かなくてはならない。そして、昆布のことをよく知っている漁師の話を聞きに行き、よく見、よく聞き、何よりよく勉強していなくてはならない。」と長谷川さんは言います。「昆布に魅力があったというより、昆布の研究に携わって、いろんなことに出会った。それが楽しかった。」南茅部町では「昆布の神様」とも呼ばれる長谷川さんは、今でも、南茅部の養殖昆布の将来に心を砕いています。


~養殖事業が国の委託事業として開始~
昭和41年(1966年)、北海道区水産研究所 増殖部での昆布幼体の大量生産の成果を知った北海道開発局では、昆布養殖の産業化への道を探る試験事業を長谷川さんに委託します。この委託試験事業を行う地域 として長谷川さんが選んだのが、南茅部町でした。南茅部町では、昭和30年代から養殖事業に取り組んでいました。しかし、困難を多く見てきた漁業者たちは 試験事業に懐疑的であったといいます。


~吉村捨良さんの登場~
そんななか、南茅部町の川汲漁業組合の同意を取りつけ、養殖担当理事であった吉村捨良さんの協力を得ることになりました。「故郷の日本一のコンブに賭けてみたい。」と南茅部で昆布漁を営んでいた吉村さんを筆頭に5、6人の漁師が試験事業に協力することになりました。こうして北海道区水産研究所が事業の計画の立案、実行を担い、町や漁協、手弁当で参加した漁師さんたちの協力でいよいよ試験事業が始まりました。


吉村捨良さん

「昆布のふるさと南茅部で勝負する」
吉村 捨良さん(南茅部町昆布漁師)
「何事も前向きに取り組まなくてはね。こうやったら、どうだろうとやってみる、失敗しても、また挑戦してみる。まぁ、こんなことの繰り返しが楽しい。」若い頃は自分に何ができるか、いろいろ試すため「全国各地を渡り歩いた」という吉村さん。人一倍勉強熱心で旋盤工として川崎市の製鉄所で働いていた頃は、研修講師の助手も務めていたとのこと。当時の経験が昆布養殖のための様々な施設の発明につながりました。


~当時の長谷川さんと吉村さんは~
低気圧による高波で施設が損壊、また、せっかく育った昆布の葉体が流されるなど、試練が続きます。困難にぶつかるたびに長谷川さんと漁業者の方々は膝詰めで対応策を考えました。「漁師の話をよく聞かなければならない。試験事業が始まってからは研究所から川汲に何度も出かけましたよ。」と長谷川さんは当時を振り返えります。
一方、吉村さんは、旋盤工として培った技術と漁師としての経験から養殖施設を自ら設計し、試験事業を強力にバックアップしました。吉村さんは、どのような施設が養殖に最適か何度も図面を引き試行錯誤を繰り返したといいます。


~努力が実り見事成功!予想以上の出来に驚きを隠せない~
こうして国の委託事業として進 められた川汲漁協が長谷川由雄博士の指導のもと実施した「促成コンブ試験調査事業」は、2年生であるマコンブを1年間で生長させる「促成栽培」に見事成功 することができました。 1966年11月、海中の養殖施設に付けて沖に設置した昆布は翌67年の年明けには1.5メートルにも育っていました。生育の様子を観察していた漁師から は「どんどん伸びている」と驚きをこめた報告が続いたそうです。そして8月、1年間の養成で2年ものに匹敵する大きさまで成長した昆布を収穫することがで きたのです。しかも、天然コンブの80パーセントの価格に格付けされるほど上出来でした。「これにはびっくりした。長谷川先生だって予想してなかったことだからね。」と吉村さんは笑います。 昭和44年、試験事業の成功を受けて、ついに本格的な養殖事業が始まります。 その後、養殖コンブの生産は飛躍的に増大し、昭和50年代には天然コンブの生産量を上回るまでになります。これまで、天然もの頼りの不安定な漁業経営は大きく改善されました。 長谷川さんは、意外なことを言います。「実はね、開発局に言われるまで養殖試験をしようなんて思っていなかったんですよ。」と長谷川さん。「コンブは収穫まで2年はかかる。大がかりな施設を2年間も海に入れておくというのは、リスクが大きすぎる。」と。しかし、研究の成果は「浜で活かされてこそ」と試験事業に踏み切ったといいます。 研究者と漁業者の「浜」を思う気持ちが大きな成果をもたらしたといえるでしょう。
その後も、各漁協で試験的にコンブ養殖が行われ、昭和44年には、川汲漁協が養殖コンブを初出荷し、天然コンブの七掛け(70%の値段)で取引されまし た。 低気圧による養殖施設の被害、コケムシの発生などの危機を迎えながらも、吉村捨良さんが考案したコンブ洗浄機や間接熱風式乾燥機(吉村式乾燥)の普 及により、大量生産が可能になると養殖コンブ着業者は次第に増えていき、後に町の一大産業に発展していきました。 それから約40年余り、南茅部町の養殖昆布は、年間生産高約3.000トン。しかも、その品質は天然真昆布に引けを取らないと言われています。 この日本初の昆布養殖事業の成功という快挙の陰には、「水産研究者は、海に学び、漁業者に学んで自ら育つことが大切」という研究者と「故郷で日本一のコンブに賭けてみたい」という漁業者の出会いがあったのです。


参考ページ:函館開発建設部ホームページ
http://www.hk.hkd.mlit.go.jp/deji/prominence17/donan01.html

▲このページのトップへ

執筆者

山本浩介

山本浩介

■所属
公立はこだて未来大学情報アーキテクチャ学科
長野研究室平成19年度卒業研究生