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昆布の歴史

昆布の里南かやべ昆布は太古より現在まで、日本各地、琉球諸島そして中国大陸など東アジアで利用されてきました。昭和初期に中国大連で、日本人技術者により昆布養殖の研究が始まり、現在中国では養殖によりわが国の20倍以上の生産を揚げるようになりました。しかし、昆布は元来中国には分布していません。昆布の産地は、東北地方以北、即ち東北・北海道から千島・樺太なので、当時は、天然昆布を採取し干した物を、本州の日本海沿岸から九州・琉球を経由するか、沿海州から朝鮮半島北部を経由して、中国に輸送されていたと考えています。
中国で昆布に関する記録については、紀元前2世紀頃の中国の辞典「爾雅」の中に、「綸似綸組似組東海有之」という一文があます。「綸(カン)」は昆布または海藻類を示していると考えられ、「昆布は紐に似て東海に産する」と言う意味です。紀元2世紀ごろに編纂された中国最古の食文化書物といわれる「斉民要術」の海藻の項には、「綸組」という単語が見られます。紀元300年頃に編纂された「呉晋本草」の中では「昆布」という漢字が始めて用いられます。紀元500年頃に「本草集注」を集大成した高名な医薬学者の陶弘景は、このことにふれ「昆布」は、「綸布(カンプ)」と言う単語と発音が似ているので「昆布」を用いるようになったと記しています。紀元前2世紀頃から紀元2世紀ころには「綸」「綸布」が現在の昆布を指していたのかもしれません。
わが国の書物には、「続日本紀」の中に、紀元715年蝦夷の酋長・須賀君古麻比留が朝廷に「先祖代々、夷布(昆布)を貢献し」と記され、蝦夷地から継続して昆布が献上されていたことを知ることができます。「延喜式」(967年)には昆布が陸奥からの租税であったことや昆布の佃煮と思われる料理が紹介されています。租税で朝廷に集められた昆布は、寺社や貴族に支給され、昆布の利用が広まっていったと考えられています。平城京や平安京には、東西の市に「海藻店(ニギメタナ)」が開設され、さらに平安京の東の市には、海藻の加工品を売る「海菜店」も開かれていました。このような店が出現したことは、昆布が貴族だけでなく広く庶民に利用されるきっかけになったと考えられます。その時代の主に交易の対象となった昆布は、大和・日本の勢力圏から推察すると、ホソメコンブと考えられます。
鎌倉時代中期には、東北の安東氏の勢力拡大に伴い北海道南部に倭人が入植し、日本の勢力圏がさらに拡大しました。1350年に玄惠が記した「庭訓往来」には、重要水産物として「宇賀昆布」と記載されています。この宇賀は函館市内の地名です。北海道との交易が盛んになり、東北や北海道の日本海沿岸産のホソメコンブに加え、ホソメコンブより上質なマコンブが「宇賀昆布」として流通していたことが伺えます。その後、北海道にますます倭人が入植し、日高地方(ミツイシコンブ)、釧路・根室地方(ナガコンブ)で魚場開発され、さらに1799年には高田屋嘉兵衛のエトロフ航路が開設に伴い、千島の昆布漁場(ナガコンブ)も市場に組み込まれました。釧路・根室・千島地域に分布するナガコンブは、全長20m以上になり高密度に群落を形成することから、資源量的に他の昆布を大きく凌ぎます。琉球経由で清国に大量に輸出された昆布はこの種です。

参考文献
遠藤吉三郎 1911 海産植物学全 博文館
中島暉浩編 1986 昆布 (社)日本昆布協会
大石圭一著 1987 昆布の道 第一書房
大野正夫編 2004 有用海藻誌 内田老鶴圃
江口 拓編 2004 旬の食材夏の魚 講談社

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執筆者

松山教授

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